そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

十九歳

私が炭鉱都市にある伯父の家に預けられたのは、十八の夏である。

失恋で傷を負った私は、受験勉強に雑念を入れぬため、夏の間だけ街を離れたのである。

伯父の家は居酒屋であった。と言っても、伯父は炭鉱夫ではなく、炭鉱を管理する職であり、夏の間は街を離れているため、店を切り盛りしているのは伯母であった。

私が伯父宅に足を踏み入れると、溢れかえる酒と汗の匂いに驚いた。一階が店になっていた。夕刻であったため、店の中は酔った人夫で溢れかえっていた。伯母は気づくと店の入口に近寄ってきた。しかし、人夫達に阻まれてなかなか来ることが出来ない。豊満な中年女の体は、人夫達の幾多の逞しい手に絡みつかれていた。

「いやあよう、ほら、甥が見てるねんで、もう」

伯母は体を揺らしながら言った。

 

人夫達は日中は炭鉱に出払っている。そのため、夕刻前の家の周りは閑静で、落ち着いて受験勉強に励むことができた。私は時折店を手伝いながら、駄賃を貰っていた。ある時、私が人夫に料理を運んでいると、その卓の酔った男たちは口々に、「やったか」と言ってきた。聞くに、この店の男たちの大半は、既に伯母の寝室に呼ばれたことがあるらしいのであった。しかし、毎日隣の部屋で寝泊まりしている私はそれを知らなかった。

 

その晩、ふと思い立って、夜半まで起きてみることにした。床に腰を下ろし、ざらついた白壁に耳を当てた。そして、幾何学の参考書を開いた。ドアが開く音がした。目は紙の上を滑ったが、一寸も頭に入ってこなかった。その代わりに、壁の向こうで三角関数が蠢いているのを感じる。虫の声に掻き消されそうな答えを、手繰り寄せることに必死であった。

翌朝は伯母を直視することが出来なかった。机に向かっても禄に手につかず、ただ時計の針が動くのを見ていた。

「夕べはよう眠れた?」

布団を取りに来た伯母に肩を叩かれた。途端、部屋の温度の高さに気付き、湿った己の肌に気付いた。窓の外に、空蝉が張り付いているのを見た。腹のあたりの曲線が、伯母の臀部のそれと重なって、居てもたっても居られなくなった。その晩も、壁に耳をつけて過ごした。

 

瞬く間に夏は終わった。帰京の前夜、私は例によって店仕舞を手伝った。皿を拭く分厚い手には、故郷の温もりの様なものを感じられた。私は、若い手がおると仕事が楽になるねえと笑う声に、夜半の出来事を尋ねた。出来るだけ、純真さを取り繕おうと努めた。薄暗い部屋に、鈴虫や蛙の声が響く。扇風機は様子を伺う様に首を振る。沈黙が、汗の背中を滑り落ちて行く不快感を、感じさせる。伯母は手を止め、こちらを見ると、妖しい笑みを浮かべて言った。

「十九になったら、おばちゃんのお部屋においで」

その時、戸の外でした物音に私は気付かぬふりをした。

 

次の夏、一浪した私は再び伯父の家に厄介になることになった。

それは夕刻であった。

私が店の戸を開けると昨年一度も顔を見せたことの無い伯父が立っていた。

「ようきたな」

伯父は背が高く古時計のような印象だった。丸メガネの奥で、聡明そうな目が光っている。角張った顔にはふっさりと髭を生やしており、口元には人の良さそうな笑みを浮かべていた。来ているチャコールの半袖のシャツにも清潔感が伺えた。なんとも、この店や、この街の雰囲気に似合わぬ人物である。

カウンターの奥にいる伯母と目が合う。一瞬の流し目が、黒く濡れて光った。それが意味するものを、私は知っていた。

夕餉の後、私は伯父の部屋に誘われた。部屋は私の使っているものより狭く、ベッドと小さなナイトテーブルの他にはほとんど何も無かった。テーブルにはスコッチの瓶と氷の入ったグラスが二つ置かれていた。伯父はベッドに腰を下ろし酒を注ぐと、私にもそれを勧めた。

「見ての通り、俺はこっちには全然帰ってこん。」

そして、東京弁で話を始めた。淡々とした調子であった。妻の不貞を5年前から知っていること、今夏は仕事がなく此処にいること、そして妻と不貞を働いた者は夏が終わると「飛ばされ」ること。私は、これは警告だと身構えた。そして、伯父は言った。妻を殺そうと思っている。

 

私は、明朝の始発で実家に帰った。逃げ帰った、と言うべきであろう。その後、伯父母夫婦がどうなったのかは、言うまでもない。玄関の引き戸のサッシには、夏の初めには珍しく、空蝉が貼り付いていた。途方もない吐き気に襲われながら、私は地面に落とすと、足で踏み潰した。後には粉々になった何かが、残っているだけである。