「これで最後ね」
彼はそう言った。
彼の右側の頬と鎖骨とデコルテは、オレンジ色の光に照らされていた。
私は、オレンジ色の天井と彼の半分だけオレンジ色の顔を見上げた。
あ、そうか、最後なんだ。と思った。
最後であることは知っていたはずなのに、何故か今初めて最後であることを知ったような感覚だった。
最後。
それなら、最後に、ビーフシチューを作って、好きな映画を一緒に見たい。ということを私は彼に伝えた。
そして私は、ビーフシチューを作っている。
脚の間のこの違和感も、もう、最後なんだ。
何度か、電車が通る音が聞こえる。部屋が優しく振動する。
私は中央線沿いに住みたかった。赤坂とか、港区とか、そんなんじゃなくていい。
穏やかな秋の夕日の似合う街で、しっとりと、エモーショナルに暮らしたかった。
でも、彼は、赤坂とか港区に住みたい!とはっきり言えたり、蟹の殻剝いて!と素直に言えたりする女の子がよかったらしい。
彼は、好きな人が出来た、と言った。職場の後輩らしかった。
インスタで見たことがある。可愛らしくて、ハイブランドで身を固めた、今をときめいている女の子だった。
その子と、付き合うのだろうか。
彼は、身長も高くて、いい会社に勤めていて、顔もかっこいいから、きっと告白したらOKされるだろう。
私は、ビーフシチューを煮込みながら、ちらりと彼の方を見た。
彼はテレビの前のソファに座って、つまらなさそうにスマホを見ていた。
以前なら、どれくらい前のことかは忘れたが、私が料理をしていると、後ろから手を回して抱き着いてきたり、手伝ってくれたりしたのに。
もう、最後だもんね。
私は改めてそう思った。
最後なら、もっとやりようはあるんじゃないだろうか。
でも、私だって無駄に二十六年生きてきたわけじゃないから、こうなってしまったら、どうあがいても彼の心を引き戻すことが不可能であることは知ってる。
きっと、縋りついて泣いても、脅しても、意味がない。
もう少し若ければ、時間をおいて、彼の気持ちがこちらを向く、皆既月食くらいの周期を待ったかもしれない。
でも、この歳になるとそんな余裕もない。
早く結婚して、家庭を持って、幸せになりたい。
だから、最後でいいんだ。
鍋の中でドロドロと混ざり合うルーと牛肉を眺めながら、そう言い聞かせた。
ビーフシチューが完成して、ソファに座って映画を見る。
映画は、男女がくっついて離れて、またくっつく、感動のラブストーリーだ。
映画の途中で、何度も、こんなことしてていいの?と頭の中の私が聞いてきた。
最後なんだから、もっと、触れたり、話したり、するべきじゃないの?
ふと、彼の方を見ると、彼の顎にルーが付いていた。
私は無性に、それを舐めとりたいと思った。
でも、もうそんなことできない。
彼の周りには薄いバリアのようなものが張られていた。
彼に触れたら、拒絶されるだろう。そう思った。
でも、どうしても、その形のいい口元の少し下についている、ルーを舐めたくなったのだ。
逆に、拒絶されなかったとしたら?彼の好きな女の子なら、躊躇いなくやるかもしれない。
そんなことを思って迷っているうちに、彼はそれを親指で拭い取った。
その親指は、親指なのに、なんだか逞しくて、彼が他の女性を抱いている姿を想起させた。
彼の厚い胸板が女性の肌に触れる。
熱い息が耳にかかる。
それを想像しただけで、背筋がぞっとして、悔しくて、悲しくて涙が出た。
涙は横隔膜を刺激して、嗚咽が止まらなくなった。
突然大声で泣きだした私を、彼は冷たい目で見た。
もうその分厚い手は、私の頭をなでたり、私の涙をぬぐったりはしなかった。
私は、ティッシュで涙をぬぐって、ごめん、とだけ言った。
映画は終わる。
エンドロールが流れた。
そのあとのことは覚えていないけど、彼の使った食器と、ビーフシチューの残りが入った鍋と、彼の香りの染みついた部屋と、私が残っていた。
オレンジ色の照明が嫌だ。
私は、恋愛映画に憧れて部屋にオレンジ色の照明を付けた。
感動の物語、映画のような恋愛、二人の愛の話、エモい演出、悲しいセックス、ささやかな不和、確かめあうような眼差し、暖かな家庭、ぬくもりにあふれた人生…。でも、そんな二人の物語のための部屋は、一人になった持ち主には、残酷過ぎた。
彼の持ち物はこの部屋にはない。
彼は、それを、取りに来ただけだった。
私は、ひとしきり泣いて、疲れたので、とりあえずは寝て、お風呂に入って、彼に「いままでありがとう」とだけ送って、寝た。
朝起きると、素晴らしいほどにいい天気で、それがなんだか無性に腹が立った。
私はビーフシチューの残りを食べた。
スマホを見ても、彼からの返信はなかった。
何時間待っても、返信はこなかった。
当然だ。
午後になって、もやもやしてパンパンに膨れ上がった気持ちを何とかするために、スマホを置いて外に出た。
彼と過ごしたこの街は、一人になった私にはとても冷たかった。
私は、彼がいたから、この街に越してきたのだ。
行きかう人も、店も、空気も、二人で見てたから、他人だったのだ。
今の私には、みんな、幸せそうに見えて、苦しかった。
私はあえて、彼との思い出の場所を巡った。
二人で行った喫茶店、古着屋、雑貨屋、河原、古本屋…。
そこに、私の心を癒すものはなかった。
私は、電車に乗って銀座に行った。この街から程遠い場所に行きたかった。
街には、クリスマスを目前にして、ブランドのお店のウインドウショッピングに夢中なカップルがたくさんいた。
きっと、あの後輩女子は、彼にネックレスなんかをおねだりするのだろう。彼は喜んでそれを買って、それを付けた彼女を見て、優しそうに、かわいいよ、と微笑むんだ。
そして、頑張って働いて、喜ぶ彼女を見れてよかったと思うのだろう。
でも、私は、そういったものから遠ざかっていた。
街のイルミネーションが、ぼやけて、何も見えなくなった。
ただ一つ、イタリアンレストランの看板だけが目に入った。
ドリア。
そうだ、ビーフシチューの残りで、ドリアを作ろう。
私には、今、他になにもないかもしれないけれど、ビーフシチューの残りがある。
精神状態がおかしいのか、それがなんだかうれしくて、私は早く家に帰りたくなった。
沢山の人間を吐き出して、電車は駅に止まった。
吐き出された人間たちは、私にどこか似ているところがあって、みんな、恋人といた。
改札を出ると、街は、なんだか優しくなっていた。
私は街の全てが好きになった。私の居場所はここだった。
彼ではない。
どこかゆっくりと流れる時間。夕方と夜の間の、薄暗い空と、暖色の街灯。
ガチャリと鍵を回して、家に入り、電気をつける。
オレンジ色の照明の私を優しく包んだ。
電車が通る音がした。
私は中央線沿いに住みたかった。
それでいい。
オレンジ色の照明と、中央線沿いの暮らしは、私を喪失から救ってくれた。