きみのねこみみは
ちいさくてかわいいけど
ぼくのそれよりも
とてもおそろしいうつくしさをもっていた
私が彼女に出会ったのは去年の暮れだったと思う。彼女はただ私の記憶にその残像を残して消えてしまった。
ならば私もその残像をなぞれば良いと思って彼女の背中をおいかけるように鏡の前で彼女の仕草を真似ることもあった。
しかしそこに映るのは彼女に執着している醜い存在だった。
しかし彼女は私の心に深い深い傷を負わせてしまった。
その責任を負わせなければならない。
ただ1人真鍮の額縁にすっぽりと収まったまま私を見下ろす美しい私の影に。
私は還暦を迎えてから、これと言ってやることもなく、週に1度退職した会社にやってもらやらなくても変わらないような仕事をしに通っているくらいで、映画館で時間を潰したり、公園で木々を眺めたりするような時間を過ごしていた。
家族には疎まれ、できるだけ日中は家から出るようにしていた。
そんな中で彼女に出会った。
彼女の名前は成美と言った。
成美は35の女で、画商をしていた。どうやら祖父のコレクションを売り捌いているようだった。
私は絵などに興味はなかったが、ギャラリーで憂鬱そうに頬杖をつく彼女の横顔に惹かれ、ギャラリーに立ち寄った。
横山大観やら橋本雅邦やら、錚々たる画家の名前の中に、ナカハシイチオという名前があった。
その名前は私の古い同級生の名前だった。
彼は何か有名になったのかと聞くと、彼女は何も言わずに口の端をニッと上げて微笑んだ。
その微笑みは妖美に空間に残った。
私は彼女の虜になった。
しかし、どうして私が彼女に近づくことができよう。
私は絵を買った。成美は絵を売った。
ただそれ以上もなく、それ以下のこともなかった。
それから3ヶ月、高校の同窓会があって、それに出席するとナカハシイチオが居たのである。
ナカハシイチオと私は大して面識もなかったので、突然話しかけるのも不自然であった。
私の友人に顔が広い男がいたので、彼を通してナカハシイチオと知り合うことが出来た。
ナカハシイチオはヒョロヒョロとした体とギョロギョロとした目を持っている、魚みたいな男だった。
私は成美の話をした。
ナカハシイチオはひどく取り乱していたが、しばらくして、彼女の絵を見たいか、と聞いてきた。
私は興味本位で頷いた。
そして私はナカハシイチオのアトリエに行くこととなった。
ナカハシイチオのアトリエは都内一等地にあり、彼の同窓会での印象とは大違いで、彼が有名画家であることを示していた。
アトリエには所謂印象画が大量に置いてあった。
白い壁と白い床には絵の具が沢山付いていて、家具は全て黒かったけれど、そのどれにも絵の具が飛び散っていたため、洗練された部屋の感じとは大違いで、カラフルで目がチカチカするようだった。
ナカハシイチオはアトリエの奥の扉を開けると、その絵を私に見せてきた。
それは、成美の絵だった。
日傘を差した成美は、額縁から私達を見下ろしていた。
これは、モネの絵じゃないか?
私は聞いた。ナカハシイチオは成美の姿をぼんやりと見ながら、彼女は、ニンフォマニアだったんだ、と言った。
成美は、画商である祖父の商売を継ぐために中学を卒業すると北海道から赤坂に越してきた。
田舎から出てきた成美に東京はあまりにも大きな街だった。
成美は黒い古臭い通学鞄をビロードのコートの前にぶら下げて、学校まで通っていた。
放課後はギャラリーに入り浸り、祖父の元で絵を学んだ。
そこで出会ったのが、当時新星として持て囃されたナカハシイチオだった。
成美は純朴で人懐っこく、絵を売りに来たナカハシイチオによく懐いた。
ナカハシイチオは物憂げな顔で絵を見つめる成美に惹かれていったが、その神聖であり不可侵である若いみずみずしい彼女のオーラに充てられて、次第に精神を病んでいった。
成美はナカハシイチオのアトリエに遊びに行くようになった。
しかし彼女がいる時ナカハシイチオは、狂ったような色彩の絵や、暗く深い深海のような絵を描くことしか出来なかった。
ナカハシイチオは危機感を感じ、成美にアトリエ近づかないように頼んだ。
成美はニッコリと笑って、あたしのことを描いて頂戴、と言った。
ナカハシイチオは雷に打たれたようになって、それを承諾した。
彼の気狂いみたいな感性の欲していたのは成美という芸術的存在だったのだ。
成美はアトリエで服を一枚ずつ脱いで行った。
そう、この奥まった部屋でだ。
成美は扇情的なポーズでナカハシイチオの前に立った。
しばらくして成美は来なくなった。
ナカハシイチオは以前のような普通の絵を描けるようになった。
しかしその日常も終わってしまう。
成美は3,4人の男性を連れてアトリエにやってきた。
完全に狂わされたナカハシイチオは彼女のスケッチを書きなぐった挙句ある種の憧憬の形であるモネの絵に重ねて彼女の絵を描いた。
そこまで説明するとナカハシイチオは恥ずかしそうに肩を竦めた。
こんな話、聞きたくなかったでしょう。
私は成美の纏っていた異様な雰囲気の理由がわかった気がした。
その部屋から成美と、体液と、絵の具の匂いがするような気がした。
私はその絵を買った。
ナカハシイチオの中でもその絵は呪いのように染み付いていたという。
そして私は再び成美のアトリエに行った。
あれ、こないだ絵を買ってくれたお客さん
成美は私の方を見て微笑んだ。
私はナカハシイチオと会ったことを話した。
成美はいたずらっぽく、私、絵になりたいんです、と言った。
そしてそれをきっかけに、私はギャラリーの外で成美と会うようになった。
ナカハシイチオは彼女と関わっている間、おかしくなったようだったが、決して後悔しているようではなかった。
それは私もだ。
彼女の残像は今も私のねこみみになっている。