今日、夫が死んだ。
そんなあたしは異邦人じゃなくって未亡人。
でもあたしはムルソーじゃないから、悲しくって、涙が出た。煙草なんか吸いたくもならない。
まだ、子供もいないし、もう三十二なのに。
夫は良く尽くしてくれた。良き夫だった。
ちゃんと働いて、家事もできて、あたしには事あるごとにプレゼントを贈って、誰からも気に入られて、記念日も忘れなくて、あたしのことが好きで好きでたまらない夫だった。
あたしの女子高の友達との飲み会に、「今日は寒いから」と買い物ついでに送って行ってくれた。
おしゃれなイタリアンレストラン。あたしたちもこういうところでお酒を飲めるようになったのだ。
バリバリ営業をやっている晴美と、看護婦をしている奈津、教員をしている亜紀。
四年ぶりの再会で、話にも花が咲く。
もちろんピザもワインもパスタも美味しくて、少しいい感じに酔っていたあたしたちの話題は、ディープなものに移った。
晴美はレスで、奈津は不倫してて、亜紀は子育てに苦しんでた。
なんだか、大変なんだな。ってあたしは思った。
あたしには特に生活に不満はないから、
「もはや夫通り越して犬とか執事みたいな感じ」
「犬とか執事とセックスするの?」
なんて話してた。この話をしてる時、あたしは、ちょっとだけ夜のことを思い出して、下着が湿ったのを感じた。だから、今日はお酒を飲んで気分も昂ってるし、させてあげようかな、なんて思った。
暫くして、電話が鳴って、酔いで合わない焦点でスマホを見て、何だろうと思ったら、彼は事故で死んでた。
あたしの酔いは一瞬で醒めたと思ってたけど、
安置所までそのままお金も払わずに走って向かってしまったあたり、酔いが完全に醒めたわけではなかったんだろう。
何があったのかは詳しくは聞きたくもなかったし聞かなかったけど、夫の身体は上半身と下半身で分かれてて、治療の余地もなかった。
夫は、死んだ。
それで今は、通夜の席にいる。参列した人間たちに挨拶をする気にもならない。
走ってきたせいで、ストッキング一枚に包まれていただけの足の裏は血だらけで、ずきずきと痛む。でも、今の今まで痛みがマヒしていたから、何も手当などしなかった。
あたしはどうすればいいのか分からない。突然、そんな、勘弁してよ。
夫が死んでいない友達からの心配のラインに、返信する気も起きなかった。
ひたすら泣きじゃくって、あたしは死のうとして、道路に飛び出した。
でも、駆け付けた母に取り押さえられて、それもかなわなかった。
母の目を盗んで、絶対に死ぬ。あの人のところに行く。それしか考えられない。
両親と、夫の両親に支えられながら、通夜の支度をする。
あたしの目の前は涙でずっと曇ってた。
薬のせいか、お酒のせいかは知らないけれど、それからの数時間・数日の記憶は、なくなった。
なんで?
あたしは頭の中を疑問符でいっぱいにして、数日間実家で過ごすことになった。
夫の両親は度々あたしのもとに訪れて、色んな手続きの話をしていた。
表面上は、
「こないだは取り乱して申し訳ありませんでした。」
「はい、その点に関しては既に税理士と相談しておりまして」
と丁寧に答えていたけど、それはあたしの別バージョンがやってくれていて、本当のあたしは、うるさい!ほっといてよ!と部屋の中で泣きじゃくっていた。
両親はあたしのことをそっとしておくことに決めたのか、説教臭い言葉も言わずに食事だけを提供していった。
あたしは時折外にでて手続きをしたり、会社に行ったりしていた。
外に出ると、夫婦やカップルがいてとても不愉快だった。
けど、気を紛らわすことも少しはできた。
会社の人たちはあたしのことを腫れ物みたいに扱った。でもそれは、嫌な気はしなかった。
だってあたしは腫れ物で、目だってこんなに腫れてるんだから。
夫のことは思い出さないでもなかったけど、一度考えるとどんどん思い出してしまうから、頑張って忘れようとした。
もう、夫のことは忘れたかった。
死にたいとは思わなくなったけど、これからの人生どうしていくのかってことも、考えたくはなかった。
夫が死んでから一週間、何かの記録か、裁判の話か、ふとした拍子で、夫の事故があった時間が分かった。
それはちょうどあたしが執事がどうとかいって、夫との情事を思い出してた時間だった。
なんで覚えてるかと言うと、目の前に時計がある席だったから。
ああ、そっか。
夫がたくさん血を流して、痛くて、どんなことを考えていたかは分からないけど、少なくとも死にたくないと思って苦しんで死に立ち向かっていた時に、
あたしは、夫の身体や夜のことなんか、いやらしい想像をして、発情して、下着を湿らせていた。
それを考えたら、なんだかもうどうしようもない気持ちになった。
誰かの肌に触れたくて触れたくて仕方なくなった。
誰かというか、それは夫だった。
でも夫はいないので、仕方がないから誰でもよかった。
あたしみたいな最低の女のことを、責めて、罰してほしかった。
あたしは、心を無にしてアプリを入れて。
「今から会える人。」
とだけ書いて、夫とハワイに行った時のドレスの写真を載せて、通知を待った。
「こんにちは」
大学を卒業してすぐくらいのがっしりとした体型の男が、駅であたしを待っていた。
コートじゃなくて、ジャンパーを着ている。それも、赤いジャンパー。
ジャンパーの下には、黒いTシャツを着ていて、胸筋が浮き出ていて、体付きがよくわかった。
何故かズボンは深緑で、靴は黒と、ジャンパー意外は地味だった。
あたしはサングラスを外して、「こんにちは」と言った。
男はあからさまにドキリ、としていた。
こういう男は簡単に女を見下す。
あたしは夫と二十五で出会ってから、他の男と懇ろになったことはない。
でも、大学までは大層モテて、三か月ごとに別の男と付き合っていた。
だって、あたしは美人だ。身長もそこらの男よりは高いし、目も二重だし、肌もきれいで、唇はうるおいがあって形もいい。ミスコンにだって、推薦されたことはある。
正直言って、夫には勿体ないレベルだ。
それでも夫を選んだのは…って、また夫を思い出してしまった。
「家、行くんでいいんですか」
男は体育会系出身だろう。ツーブロックだから。顔もニキビ跡だらけで、一重で、鼻が低くて唇が分厚くて、ブ男だ。金をちらつかせない限りモテない商社マン、といったところだった。
まあ、アプリだって、欲を満たしたいから入れたんだろう。
あたしは無言で微笑んで、彼の袖をつまんで、引っ張った。
あたしは、数か月ぶりに夫と住んでいた家に入った。
待ち合わせより前に来て、掃除をしたけれど、やはり少しホコリが目立つ。
でも、今はそんなことどうでもいい。
あたしは、早く罰されたい。
「失礼します」
彼はきっちりと靴をそろえて置いた。
あたしは先にコートを脱いだ。
「え…」
あたしはコートの下に、何も着てこなかった。
「いいんですか?」
「そのために来たんでしょ」
はははははははははははははは!!!!!!!
その女は、突然笑い出した。メンヘラかな、と俺は思った。
俺はなんとなく欲を発散させたくて、手ごろに会えそうなきれいな女と会うことにした。
現れたのは、めちゃくちゃな美女だった。
でも、手は少し皺があって、二十代ではないな、と思った。
女が連れてきたのは、明らかに「家庭」の部屋だった。
不倫とか、リスクのあることはしたくないから、俺は帰ろうと思った。
しかし、流石に生まれたままの姿で俺を待つ女をそのままにするのは、ちょっと可哀想かなと思ったから、よしとした。
でも、今はその決断を猛烈に後悔している。
俺の語彙力の範疇を超えた笑い声に、心臓に鳥肌が立ったがごとく震えあがった。
これは、罰なのだろうか。
インスタントに快楽を得ようとした愚かな俺への…。
恐らくこの女は事情のある「事故物件」だ。
どうすれば、この場からおとなしく逃げ出すことが出来るのだろう。
でも、女の身体は、餅つきで水をつける側になったときのことを思い出すほどにはよかった。
女は、時々何がおかしいのか少し吹き出して笑ってはいたが、その妖美な笑顔は、良い効果を生み出した…。
でも、この気の狂った笑いには、恐怖しか抱かなかった。
そして、女は五分くらい笑い続けている。笑いは過呼吸に代わって、俺も、救急車案件か?とハラハラした。
そうなると、夫にもバレるし、おしまいだ。
俺も笑いたくなってきた。
しばらくして女が落ち着いてきたので、声をかけることにした。
「あなたみたいな人に、ずっと汚されたかったの」
は?
俺は呆れ返った。そして、落ち込んだ。
俺は、汚いのだろうか。
あたしは突然、発作の様に笑いだして、過呼吸みたいになった。
あたしにの隣に寝転んでいた男は、ドン引き、していた。
あたしは何かがおかしくて仕方なった。
罰されて、罪を償えたことが嬉しかったのか。
夫がいなくなって悲しかったのか。
自分のしていることがバカみたいだったのか。
「あの、大丈夫ですか?」
誠実そうな言葉の裏に、こいつなんかやべえ、という響きがあった。
「大丈夫~」
あたしは、笑いが止まらなさすぎて出てきた涙を拭いながら言った。
「あなたみたいな人に、ずっと汚されたかったの」
男はしゅんとした。
その顔がおもしろいことったらないわ!
アハハハハハ!!!
あたしはまた笑った。
馬鹿じゃないの。
「あのね、あたし、夫が死んだのよ」
男の顔が複雑に歪んだ。
醜いと思ったその顔は、逆に「味がある」と思えてきた。
それからあたしは、全てのいきさつを話した。
男は、黙ってあたしの話を聞いていた。
「そういうわけで、あなたと会ったのよ」
「はあ…」
男は、ベッドのそばの窓から、冬の西日を眩しそうに見つめた。
夫とあたしの匂いで満ちていたはずのベッドに、異質な匂いが混ざる。
「俺も、親が死んだので、よくわかります」
あんたなんかには分かんないよ
「ね、お風呂入らない?」
あたしは返事も聞かず、ベッドから裸のまま降りて、そのままシャワールームに向かった。
男はのそのそとついてきて、その体重を表す足音が、汚くて不快だった。
ひとまずは、不倫じゃないことが分かって安心した。けれど、それ以上にこの女のやばさはリスクにしか思えなかった。できれば、早く帰りたいけれど、ここで帰ったら何をされるか分からない。
女は鼻歌を歌いながら、湯船の中の俺の腹に足を置いていた。
「コーヒー、淹れてあげる。得意なのよ」
「はぁ…」
湯船の湯気の中で、溶けてしまいそうな雰囲気だった。
女の顔はふわふわと揺らいで、本当に消えそうだった。
俺はそれが怖くなって、女の腕を掴んだ。それはたしかにそこにあった。
シャワールームから出ると、あたしは豆を挽いて、コーヒーを作り始めた。男は体を拭くと、ベッドに横たわっていた。
窓の外はすっかり夜になっていた。疲れるのも無理はない。
ミルのハンドルを回す。
ゴリゴリと、独特の音が鳴る。あたしはこの音が好きだった。
コーヒーの淹れ方を教えてくれたのは、夫だった。
「芙由奈さん」
ミルの音に紛れて、どこからか声が聞こえたような気がした。
でも、男には本名は教えていない。
それはつまり、夫の声だった。
ああ、これが幻聴というやつか。分かっていても消えなかった。
夫の声が、コーヒーの香りと一緒に立ち昇ってくる。
「芙由奈さん、可愛い」
「飲みすぎ。今日はお酒は終わりですよ。」
「今日は何時に帰るんですか?」
「い、いや、あまりにもキレイな目をしているものだから、声かけちゃいました…」
うるさい。
「コーヒー、出来たけど」
あたしがベッドにマグカップを持って近づくと、男はスヤスヤと寝息を立てていた。
「芙由奈さんに触れたすべての男が許せない。殺してやりたいくらいだ。」
夫がまだ恋人だった頃、元恋人の存在を知ったとき、こう言って頭を抱えていたものだった。
ああ、あたし愛されてたなあ。
そんな風に思った。
コーヒーの香りに混じって、どこからか妖艶な夫の香りが鼻腔を突いた。
あたしも、愛してたんだけど。
心の中で零れ出た言葉、それが少し恥ずかしくて、苦笑した。
「ねえ」
あたしは、静かにつぶやいた。
「今も、あたしのことを見ていてくれるなら」
あたしは、刺すような視線を目の前に横たわる何かに向けた。
「この人のこと、殺してください」
薄く開いた窓から冷気が吹き込み、あたしの指は、いつの間にか、陶器のように冷たくなっていた。