そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

恋うるみなとに 三の巻

f:id:rikorisu0213:20210712133621p:image

 

次の日は午後から夏期講習だった。親が料金を払っていてくれることもあり、サボらずに行くことにした。正体については、みなと以外には明かさないことにした。厄介なことになりそうだからだ。

 

教室に入ると、懐かしい面々が顔を揃えていた。しかし、懐かしさとともに、寂しさを感じた。理由は分からないけれど、虚しさの混ざった寂しさだった。

 

授業も懐かしいものばかりだった。今では楽に解けるものも、今ではさっぱり分からないものもあった。なによりも、黒板を白墨が滑る小気味いい音が懐かしかった。

「それでは、宿題の答え合わせから始めます。」

透き通る声。この声が、学校に行く唯一の動機だった。みなも先生。中一からずっと担任で、初恋の人。

 

教室が暑くなってくると、みなも先生は綺麗な色の長い髪を一つに束ねた。いつも一番前の席に座っていたから、その時に香る爽やかな匂いが好きだった。

 

でも、初めてそれを知ったのは、部屋の中だった。机とベッドに囲まれて、みなも先生は出された麦茶に一口も手を出さず、こちらを見ていた。

「だけどやっぱり、先生には君が必要なんだよ」

そんなことを言われたら、勘違いするのも当然だろう。

 

でも、みなも先生は、12月に結婚する。

 

「こら!その席でボーッと出来るなんていい度胸ね。」

クスクスと笑い声が聞こえる。俺も馬鹿みたいにヘラヘラ笑った。

風が吹いた。妙に冷たい、風が吹いた。

 

夏期講習が終わると、かもめが教室に入ってきた。思わず身構える。かもめのことだし、何をされるか分からない。

「あのさ」

よく見たら普段と様子が違っていた。人を睨みながら歩いているような鋭い瞳が、見開かれている。攻撃性を感じられないなんて、珍しい。

「いいよ」

何も言われてないけれど、承諾した。話を聞いて欲しいんだろう。

 

そして、窓際で空を眺めながら、残っていた人がいなくなるのを待った。懐かしい光景。体育館から、練習終わりの生徒たちが出ていく。夕方のパンザマストが流れ、空が橙になっていく。教室に半熟の光が差し込む。眩しくて窓から目を逸らすと、既に誰もいなくなっていた。

 

かもめは机に座ってスマホを見ていた。好きなソシャゲでもやっているのだろう。

「で、どうしたの?」

「ああ…」

かもめはぼんやりとこちらを見上げて言った。

「もういいから」

「うん」

「たまに一緒に帰ってあげてもいいよ」

それくらいならいいだろう。とにかく、ギクシャクすることなく上手く関係を築けるのならよかった。

「寂しいでしょ?」

大丈夫だ。もうすぐ寂しくなくなるんだから。そう言おうとして、やめた。

「今日は、」

かもめは上目遣いでこちらを見ながら言いかけた。あとは察しろということだろうか。

「今日は…」

セミの声が不思議と聞こえず、生徒もまばらになったため、教室は静寂が居座っていた。空がすみれ色になっていく。

「今日は、ちょっと職員室に寄っていくから。」

「待ってるから」

そういってから、かもめはAの形をしたままの口に手を添えて、まずいことを言った、という顔をした。なんとも言えず、可愛らしかった。

「かもめ」

「…わかった」

そして教室を出た。空調の効いていない廊下は蒸し暑かった。

「でも、メッセージは返してほしいな。」

「はいはい」

親離れができていない子供のようだった。

 

昇降口までかもめを送ると、職員室に向かった。いつも通り、だいたいこの時間には、みなも先生は教員ロビーのベランダでコーヒーを飲んでいた。

「こんにちは」

ベランダの外から声をかける。

「こんばんはでしょ。」

くぐもった先生の声。当時の、「いつものやり取り」だ。

ベランダに続くガラス戸を開ける。懐かしい音がする。