そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

自己分析(〜中一春)

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その時は無垢で幸せだった。何も考えずにただ関係性を眺めていた。自分は何者でもなかった。朝起きてパソコン開いてずっとインターネットの海に籠って、誰と関わるでもなく人の作った作品をただ享受して、誰にも読まれることの無い漫画を書いて、友達とか、関わる相手とか、そんな言葉すら忘れて、お昼になると祖母の家でお昼を食べて、うちは食堂じゃないんだぞって文句言われても、家族すら汚らわしくて、誰も私に構って欲しくなくて、めんどくさいなあと思いながら漫画を書いて時間を潰して、また家に帰った。それだけで幸せだった。私は他者と関わらないと幸せでいられた。それまでの生活は地獄だった。自我の成長期に、上手く成長できなかったのだろうか。私は破壊という方法でしか集団に入っていくことが出来なかった。私以外で連帯されると無性に腹が立った。頭が真っ白になって、暴力という手段に訴えるしかなかった。私は泣いた。ただひたすら、文句を言った。教師はそんな私の言葉を聞くことも無く、ただそういう存在として私を宥めた。中には、私のそういう所だけじゃなくて、ちゃんと私を評価してくれる先生もいた。でもそういう先生も、だんだん私を軽蔑して言った。それもそうだ。人前でするべきではない数々のことをした。だって、人前でしちゃいけないなんて知らなかった。手遅れになってから教えられた。それを自分で察する能力がなかった。それは、障害じゃないのか?そういう風に言うのは甘えなのか?いや、障害としか考えられない。私の頭はドーナツで、周りには想像の世界…それこそ、何本も何本も漫画や絵本や小説を書いた。音楽を聴きながらアニメーションを構想した。…そういうものが豊かにある。でも、精神の核がなかった。筋の通った何かがなかった。ただ快・不快の感情だけがあった。私は何かを自分の力で考えることが出来なかった。だから、その時期は、1人で想像の世界に篭もることが出来て、幸せだった…。

そんな幸せも、いつかは終わる。中学のオリエンテーションでは、私は入学式で文章を読む役割に立候補した。私がそういうのを立候補するのは、ただ目立ちたいから、人に自分の存在を知って欲しいからだった。知ってもらったから、なんだと言うのだと思われそうだが、知ってもらうことで、いつわりの繋がりが欲しかった。それは本質ではない。だけど、私のことを知っている人が増えれば、何かを希望があるんじゃないかと思っていた。クラスは、決して楽しいものではなかった。初めに仲良くなった子とは、何とかやっていくことができた。私は初めだけは上手く立ち回ることが出来る。だが、段々とその化けの皮は剥がれていく。私は誰かと合わせて行動することが大嫌いだ。でも、1人でどこかに行くのも嫌だから、私が何かをする時は、相手に利益がなくても誰かを連れていくタイプだ。こんなことをする自分が嫌いだが、こうしないと不快になるのだ。快・不快と自己肯定感の綱引きだ。でも、不快を受け入れると、それに飲み込まれる。たとえ、その後にちゃんと我慢した自分を好きになれたかもしれなくても、飲み込まれるのは、地獄だ。だから、そんな地獄は味わいたくない。そんな訳で、私は孤立しかけた。クラスの男子からは、変な名前で呼ばれるし、避けられた。クラスの女子は、私を存在しないものにしようとする人もいた。そうでない人もいた。私のそういうところを、おもしろいと思ってくれる人もいた。でも、前者が正常で、早稲田大学に沢山いるタイプだろう。私の中高は後者が多すぎた。だから、早稲田の人間と仲良くしなくてもいい気がしてきた。人々は、芝柏なんかより早稲田の方がたくさん、色んな人がいて、色んなキャリアに繋がっていて…だから、その人脈は大切にしなさいなんて言う。でも、だから何?私のことを大切にしてくれない、あるがままでいさせてくれない、面白いと感じることも無い、そういう普通の人。社会に沢山存在するのは、いい。好きにすればいい。でも、私は私を認めてくれる人と関わっていたい。社会で上手くやっていけないよ、なんて、余計なお世話だ。それは私が決めることだ。だけど、もう、そういった人はこの世に居ない。私のことを、認めてくれる人は誰もいない。そう、私は一人ぼっちなのだ。