ふと気づくと、蝉が鳴いている。それは夏だった。
「あ」
高校のバス停に立っていた。制服が汗ばんでいた。声のする方を向くと、かもめがいた。微妙な色合いの唇を薄く開けて、俺を見ていた。
「偶然だね」
苦笑いをして、すぐ前に向き直った。バス停には俺たちの他には二三人の学生しかいなかった。かもめはそばに来た。
「テスト終わったんでしょ?」
もう運命、だなんて思わない。セミが鳴いていた。バスに乗り込むと、1人席に座った。バスは走り出した。駅に着くと、家とは正反対の方面に向かう電車に乗った。かもめは改札の向こうで立ちつくしていた。
…にしても、手がかりがない。駅に着いたはいいが、どうすれば…。大学構内に入ると、案内板を見た。
「3号館 薬学部」
とりあえず、その建物に入ってみる。思えば、入ったことがなかったな。
「すみません。」
近くにいた人に探し人について尋ねる。たまたま、彼女と同じ学年だった。その人はしばらく考えたあと、3階の教室に連れていった。
「次が必修だから、潜って探せばいるかも。」
教室はいかにも理系な殺風景な場所だった。1番後ろの席の端っこに陣取って、彼女を探した。
授業が始まった。大教室だからか、周りにいる数人は制服姿の俺を不思議そうに見ていたが、教師にバレることは無かった。隅から隅まで教室中を見回した。見つかって欲しいような、見つかって欲しくないような。見つけたとして、どうしろというのか。
「みなと…」
似たような黒や茶色の頭の中に、ひときわ目立つ金色。みなとの姿は、後ろから3列目の右の方にあった。目は釘付けになった。知らないみなとの姿に、いても立っても居られなくなった。立ち上がった。周りにいた学生は一斉に振り返った。
「みなと!」
教師が怪訝な顔でこちらを見る。彼女は戸惑ったように振り向いた。みなとの席まで歩き、その手首を握る。みなとは抵抗したが、力は及ばなかった。教室は静まり返った。廊下に出ると、教室がざわめいているのが聞こえた。階段を降り、外に出る。
「何?」
みなとは氷のような鋭い視線でこちらを見た。胸が熱くなった。
「落ち着いて、聞いて欲しい」
「?」
「こんなこと言っても信じないと思うけど…」
そこで言葉に詰まる。ここで、僕はあなたの未来の恋人です、なんて言っても信じてもらえる筈がない。でも、何度も願った情景が目の前に広がっているのに、何も言わずに逃がしてしまうのは、嫌だ。
「僕は、あなたの…」
蝉の声がうるさい。腕に汗が滴り落ちる。目の前には、みなとの腕があった。細いバンドを付けていた。
「あなたのことを知っています」
「え?どういうこと…?」
みなとはより不審そうな目付きをした。
「あなたの、名前も、顔も、住所も、好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、得意なことも、今までの思い出も…」
「怖いんだけど…」
「これからのことも」
俺は顔を上げた。みなとはキョトンとした顔をしていた。これはもう言うしかないんだろうか。なんというか、先走りすぎた気がする。今から1から始めてもよかったじゃないか。完成品を求めるなんて、欲張りすぎたのではないだろうか。
「えっと、信じて貰えないと思うけど僕は…」
「授業、戻ってもいいかな?」
みなとの他人行儀な仕草を見ていると、自然と心が苦しくなって、呼吸が出来なくなった。
「ま、待って…」
目の前が真っ白になった。
真っ白になった。
目を開けると、医務室のような所にいた。警備員が俺を見下ろしている。みなとの姿はなかった。こうなったら、ああするしかない。ベットを飛び出すと、警備員の制止も振り切って大学構内から出る。電車に飛び乗ると、言ったこともない駅についた。そこは、ラーメン屋だった。ドアを開けると、「いらっしゃいませー」と声がした。床はヌルヌルしていた。にんにくと油の匂いが立ち込めている。迷うことなくカウンターに向かう。あまりに迷うことがなかったので手前にいた店員は注意を払わなかった。その人は、流しの方を向いて、キッチンタイマーを弄っていた。「あの」肩に手を置くと、その人は振り返った。
「え、なんですか」
「ちょっと外出れますか」
外に出たからと言って何が出来る訳でもない。本当は、殴ってやろうかと思った。しかしそんな度胸がなかった。途端に怖くなって、足が竦んだ。
「あの、仕事中なんだけど」
「みなとと別れてください」
蚊のような声で言った。
「は?」
どうやら聞き取れなかったらしい。腕にはバンドが着いていた。死にたくなった。
「みなとと、別れてください…」
下を向いて喋った。どんな顔をされるのかが怖かった。汗が背中を伝う。
「え、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ、てかお前誰だよ」
俺は誰なんだ?そんな疑問が頭に過ぎった。どうして、どうして、どうしてあれほど願った情景なのに、何も言えないんだろう。走り出した。電車に乗った。後ろを見たくもなかった。
ぼんやりと、大学構内に戻ってきてしまった。ここに来たからって、何がある訳でもないのに。適当なベンチに横たわって空を見た。
「これが2018年の空か」
そして目を閉じた。作戦を練り直さないとな。せっかくのチャンスなんだ。そう思っていると、みなとの香りがした。目を開けた。みなとがこちらを見ていた。
「大丈夫?」
この人、こんなことする人だっけ。午後の陽光に長い金色の髪が輝いていた。
「えっと、さっきはごめんなさい。いやあ、未来の恋人なんて言っても信じないですよね。ごめんなさい。ははは。」
立ち上がって、半ばヤケになって言った。
「え?どういうこと?」
みなとは言った。
「そのままです。でも、いいですよ。しょうがないし。」
「…」
「…?」
「証拠、聞かせてくれたら考えるかも。」
みなとは目をニコッとさせた。いつからか、当たり前になっていたその表情が、死ぬほど愛しかった。
「じゃあ…」
俺は話した。みなとと海辺で出会ったこと、それから何回か遊んだこと、途中でみなとのバイト先のゴタゴタに巻き込まれたこと、そして、恋人になったこと。みなとの好きなもの、嫌いなもの、今までの思い出。家族のこと、友達のこと、今の恋人のこと。みなとは目を丸くして聞いていた。
「すごい…じゃあ、本当なんだ。」
「信じてくれましたか」
「うん。そこまで言われたら信じるよ。そうじゃなかったらストーカーだもんね。」
心の中に喜びが広がった。
「でも、今は、付き合ってる人がいるんだ。知ってると思うけど。」
なんとなく、予想していた答えが返ってきた。
「9月には振られますよ」
「でも…」
「まあ、それまでは候補ってことで、振られるのを待つって言うのはどうですか」
「いいのかなあ」
みなとは優しい。
が故に迷っていた。
「大丈夫ですよ」
彼女の肩に手を置いた。蝉の声が響いていた。
本当の夏が、始まった気がした。