そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

矜恃

ゆりちゃんが落ちぶれていったのは、口の中に入れた生卵の黄身を割らずに他の人に渡す大会で、優勝してからだと思う。あれは確か、高校三年生の夏だった。夏によくある大雨で、教室の中は真っ暗だった。誰も、授業なんて聞いていなかった。みんなは口笛を吹いたり叫んだりしていた。ゆりちゃんはつけまつげとカラーコンタクトで真っ黒になった目をかまぼこ型にして笑ってた。ぼくはそんなゆりちゃんが綺麗だと思って、ずっと見ていた。ゆりちゃんのかまぼこがこちらを向いた。ぼくはゆりちゃんと一緒にいるようになった。みんなで校舎の裏庭でタバコを吸ったり、カラオケでお酒を飲んだり、薬をやったりした。そのあとで、ぼくはゆりちゃんと二人でファミレスのオムライスなんかを食べた。その時間は、とても楽しかった。色んな話をした。でも、何の話をしたかはもう覚えていない。ゆりちゃんは高校を卒業して、ブティックでバイトを始めた。ゆりちゃんの入れるような大学はなかった。ぼくは家から追い出されて、ゆりちゃんの部屋に住み始めた。ぼくが住んでいても、ゆりちゃんは1人で生活していた。ぼくは日がな漫画をよんで過ごしていた。どれを読んでも、どんな気持ちにもならなかった。時折、あたしオムライス食べたいんだけど、みたいなことを言われた。ぼくは頑張ってオムライスを作ろうとしたけど、上手く作れなかった。ケチャップライスは上手くできた。ゆりちゃんがインフルエンサーになって読モになってカットモデルになった頃、ぼくはらんちゃんと出会った。らんちゃんはドンキの前で捨てられていた。らんちゃんの家にはぬいぐるみが沢山あった。時々、みんなが一斉にぼくを見ているようで嫌だった。らんちゃんはご飯を作ったり、洗濯物をしたり、ぼくのお母さんみたいになった。らんちゃんの卒業アルバムには、ラクロスをするらんちゃんが写っていた。英検3級を取って、表彰されたのがらんちゃんの自慢だった。だけど、街中で外国人に話しかけられた時、らんちゃんは答えることが出来なかった。それじゃ、意味ないじゃん。そんなふうに思いながら、ぼくはらんちゃんが英検3級を持っていることに激しく嫉妬していた。その話を聞いてから一週間は、ゆりちゃんの部屋に転がり込んだ。そして、海外のファッション誌を読んで英語を覚えようとした。でもぼくの頭ではダメだった。ゆりちゃんがファッション誌をめくる指は、らんちゃんが卒業アルバムをめくる指とは全然違うものだった。ゆりちゃんの爪は長くて、キラキラしていて、どこに触っても、カツカツ、と音が鳴った。いつからかその音に苛立つようになった。そして気づいたら、ゆりちゃんはどこかに行ってしまった。らんちゃんの爪は短くて丸っこかかった。ぼくも、大切にしていることはあった。中学生の時、誰かにサクラくんは優しいね、と言われた。そのことを、折り畳んで、引き出しに入れて、取り出して、開いて、読んで、また折り畳んで、引き出しにしまっていた。だからもうボロボロだ。もしかしたら、サクラくんはかっこいいね、と言われたのかもしれないし、サクラくんは何も出来ないね、と言われたのかもしれない。らんちゃんは市役所に勤め始めた。ぼくはレンタルビデオ屋さんで働き始めた。ぼくはお客さんの顔が見れなかった。だけど、手だけは見れた。ある日、長くてキラキラしてカツカツ音のする爪が現れた。ぼくはゆりちゃんが来たと思って、びっくりして初めてお客さんの顔を見た。それは、ゆりちゃんではなかった。家に帰ると、らんちゃんがサンマを焼いていた。骨が沢山あって腹が立って、皿を地面に叩きつけてしまった。皿は割れた。らんちゃんは慌てて皿の破片を拾い集めた。そんならんちゃんが愛おしかった。ぼくはゆりちゃんの心配になるほど細い腰を思い出した。ゆりちゃんに会いたくなった。でも、もうゆりちゃんはどこにもいなかった。らんちゃんはこんなとき、英検3級を取ったことを思い出しているのかな、なんて思った。らんちゃんは破片を拾い集めると、ビニール袋の中に入れた。カシャン、と音が鳴って、破片の入ったビニール袋は床の上に降り立った。