君の死が君のことを思い出させてくれるとは
思いもしなかった
笑うと目が頬の肉に埋もれるところとか
引っ張ったシーツの擦れる音とか
そういうものが湧き上がってきて
光を浴びたあの坂と
咲いたあの花も
描いた名も無き落書きになって
それでどうして君がそんなことになったのかを教えるように
僕の脈は波打って
君のリフははにかんだ
そんな朝に
君のことを忘れないように、カレンダーに印をつけた
自殺の美学とは、一体なんだろうか。
三島由紀夫は腹を切って首を落とされ死んだ。
それはショッキングで恐ろしい事件だったが、何より寂しい事件だった。
彼の生きていた現世は、彼の望まぬものだったのだから。
そうすると我々とは隔絶したところに彼の意識があるように感じてしまい、寂しくなる。
どうしてあれ程人間愛に満ち溢れた人物が死ななければならなかったのだろうか。
人間とは一人一人が意志を持って生きている特殊な個体である。
それらの意志が入り組んで、結果が生まれる。
それは決して誰かの思惑ということでもなく、複雑な誰にも解くことのできない計算の末のものだ。
であるからに、三島由紀夫が死なないで済んだ日本を、私が当時の内閣総理大臣になったからと作れるはずもない。
人間とは考える葦である。
私はこの言葉の意味は、結局我々がどうこうすることはできず、
人間、時代、世の中は結局波のように移ろい、抗うことも出来ずなるべくして流れるべくして流れていくものであり、
しかしそんな中どうこうしようと”考える”
しかしその考えた行動の結果も所詮波の中、なるべくしてなったものである
という事なのではないかと思う。
三島由紀夫が戦争へ行けなかったのも、戦後日本がデカダン的兆候に見舞われたのも、なるべくしてなったものであり、三島由紀夫が自殺したのも、なるべくしてなったのだ。
あの時に戻れたいたらなんて、思っても、結局結果は変わらない。
ところで、こんなことは既にパスカルを始めとして多くの相対性理論学者が語っていることだ。
しかし彼らの書いた本を読んでもいまいち入ってこないのは、自分で考えた結果じゃないからだ。
実際この記事を読んでいる人も同じだろう。
たとえその考えがほかの大勢が既に考えていたものであったとしても、思いついたものだとしても、自分で考えることが大切なんやねん。
だって我々は、考える葦なのだから。