そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

文学談話 1駅名 conversation

くちぶえのような風の音。

何かが擦れる音がする。

アスファルトの上を、駆ける子供のように、老いて枯れきった秋の名残りが、冷たい風に乗って滑っていく音だ。

目を開けると、窓には雲ひとつない爽やかな青空が飛び込んでくる。

冷えて気だるい体を、体温で暖かい布団の中で丸める。もう1時間はこのままでいいと思う。

何せ、やることも無い。

無いことはないのだろうが、それをしようにも気力がない。

去年とは打って変わって、毎日家の中の生活だ。

自ら進んで籠るのは楽しいし、充実するものだが、こうも強制されるのは好きではない、と、家の厳しい女子高校生の様なワガママだ。

去年の今頃のことを考えるために目をつぶった。

目をつぶったから去年のことを思い出したのだろうか。

それは分からない。

 

誰もマスクをしていない車内で、彼女はコーンポタージュを飲んでいた。甘いトウモロコシの香りが鼻腔をくすぐる。彼女の持っているものだから良いが、見ず知らずの人が持っているコーンポタージュの香りならどうかと考えると、それはむしろ不快なものになる。

彼女とは9駅ほど同じ電車だった。いつからか私たちは、文学について話すようになっていた。

最初はどこか、どちらがより知っているか、読んでいるかの相撲の取り合いになりそうではあったが、半年も経つとそんなことはなくなっていった。

ある日彼女は、会話というのは絶対に文字で表せない、というようなことを言った。

大昔から、どこの国でも、物語には人と人との関係を描くに当たって会話は必要不可欠のため、それを写実に描こうとした作家はとんでもなく多いし、むしろ全ての先輩方が、それを試していたかもしれないが、完璧に表現し、文学という形にできたものは無い、ということだ。

私は日がな頓珍漢な印象や事象を語り、彼女を困惑させ、同意は得られないが、彼女の指摘は的を得るものが多かった。

まず、完璧な会話というものは、恐らく細かな音や吃りを拾った書き起こしになるが、それは大変読みにくく、文学にふさわしくはない。

つまり、文学という我々の生活を言葉で写実に書き表そうという表現を行うためには、そこに人に伝えるという目的を挟んでしまうため読み手にとって分かりにくくなってしまう完璧な写実表現を行うことは出来ない。

そうすると、文学における1番のテーマである人間同士の関係を完璧に再現することはできないのである。

中々に興味深く、正しい指摘ではある。だが、文学が生活を写実的に表現することを目的としているかは訝しい。

ファンタジーや、サイエンス・フィクションはどうなるのか、と私は聞いた。

彼女は、それらにしても、主人公は人間か、人間の言葉で書く以上、人間の言語を持った何かになるため、そこに言葉による会話が生じるだろう、そのうえ、非現実だとしても、作者は人間であり、彼らは現実の人間の生き方に即して行動を取るのだから、どうしても人間の営みを写実する必要が出てくる。と答えた。

そう考えると、書き言葉と話し言葉とかそういった問題になってくるのだろうか。

彼女は苦笑いした。難しくてわかんない。

コーンポタージュの缶の奥底に詰まったコーンを食べようと、ポンポン、と缶を叩く。

コーンは落ちてこないまま、駅に着いてしまった。

そこに皮肉な現実があるかどうかは別として、会話を表現することは、やはり出来ないと思った。