そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

ウォルト・ディズニーの約束

私の地獄が始まったのはIRLの屋上に続く階段の前の座席でフジファブリックの楽曲を聞いた時からだったが、私の人生が始まったのは2013年秋だったと記憶している。

私はそれまで自我というものを意識せずただ流されるように音楽のリズム感やメロディーだけに乗って生きていたがそれが終わったのが2013年秋だった。

心から何かを得たいと思って行動する時はなんの音楽を聞いても誰と話していてもその全てが楽しいと感じる。

小学生の頃の私はそのごっこ遊びのような形で好きな男の子を1980年代の少女漫画のように利用していた。

精神性というのはおかしなものでそれは自認としては不変だが大きく変わっている所があるしそうでなければ人生は虚無だ。

2013年の秋私はクラスで孤立していた春の状況から脱してある程度クラスに話せる友達が出来たり学年で作られていたメーリングリストに入れてもらって楽しい日々を送ったりしていた。

自分の存在が他人から認知されるということがただ嬉しかったが聞いている音楽はボカロやアニソンばかりだったのでそれは次第に暴走して自分のことを画面の中の出来事と勘違いして現実を見ることは出来ていなかった。

そのころの私にはミック・ジャガーマリリン・マンソンもいなかった。

兎に角私はストレートパーマをかけてJILLSTUARTのトートバッグを入手してバングルをつけたりネックレスをつけたり香水をつけたりするうちに自分を無敵と勘違いして彼女持ちで学年で1番顔がいい人のことが好きになり努力を始めるわけだがどちらが先だったかの記憶は定かでは無い。

少なくともそのおかげでそれ以前以上に学年の女子たちに舐められることもなく一時的に陽キャラと言われる女の子たちと遊ぶことも出来ていた。

そのように社会性のある恋愛をしているうちは大丈夫なものだが2014年以降のように社会性がなく閉鎖的で暖かくて優しい沼のような恋愛に浸ってしまうようになると退屈で孤独で平凡な日々が始まり刺激への耐性と指向性がついてしまうことになる。

では社会性のある恋愛とはなんだろうか。それこそ幻想だし、実際に私はそれを獲得しても尚2014年冬にレイクタウンで『ウォルト・ディズニーの約束』という『メリーポピンズ』制作秘話の映画を見た後にポップコーンの種を飛ばす姿を見てその瞬間に社会性を失って閉まった気がして嫌気がさした。

当時の私は何を思ったのか、とりあえず異性と遊ぶ時は映画を見ればいいと思っていた。その理由は今ではもう分からない。むしろ、映画なんて一緒に見たいと思うものがないときは、一緒にいる時間が減るだけだし無駄だと思うが、映画を見ようとなってもその時上映していた人気の邦画やアニメ映画を見るのがなんだか照れくさく、よく分からないが綺麗でロマンのある映画ばかり選んで見たいと言っていた気がする。

ところで私には当時性欲やそれに近いものがなくむしろそういったことを求められることに生理的嫌悪感を抱いていた。それにあたってその後苦しむことになるのだがとにかくイデアルな関係とはイデアなものだと思っていたし、そもそも興味すら湧かなかった。

今思えばそれは高校2,3年生くらいのころ突然野田のネカフェで何かをキッカケに思い出したがそれまで完全に抑圧して忘れていて存在しないことになっていた幼少期の体験のせいなのだろう。

私は1990年代のトレンディドラマの楽曲をテーマに1日6回は目を合わせるというノルマを達成することが楽しかったしそれだけで良かったしきっと、それは幻想だがそこに社会性を感じていた。