第十五話
学園祭も間近に迫ると、部活動において夕子は傍観者となった。彼女は夜の気配を背中に感じながら、合唱部の練習を座ってみていた。
「入部届けはいつ出すの?」
色んな人に言われるこのセリフに嫌気がさし、夕子は書類を持ってきていた。それは小さく折りたたまれて、制服のポケットに眠っている。
「2枚?」
昼休み、担任教師は、目を丸くしていた。夕子が頷くと、教師は低い唸り声を出した後、席を立ち、2枚の用紙を印刷してきた。
「あまり、お勧めはしません。だって、合唱部でしょう…」
夕子は紙を手渡されると、教室に戻り、書類を書いた。ちょうど、鈴子達は売店か何かに行っていた。夕子はあまり字が上手い方ではなく、不格好な文字が紙面に並んでいた。それは、夕子の不器用な在り方を表しているらしかった。
夕子の中では気持ちは決まっていた。夕子は、ダンス部に入りたかったのだ。
しかし、夕子には簡単にそうは出来ない理由があった。
それは、そのラスト・サンデーに遡る。
夕子は前の席の女子2人と、鈴子と一緒にお台場に来ていた。夕子は、母の選んだ精一杯の女子中学生のおしゃれをしていた。母の女子中学生向けの雑誌による研究の成果からか、夕子は小学生とは一線を画した外見になっていた。夕子は自分を愛してはいたが、セルフプロデュースがなにぶん下手であった。それは彼女自身が、自分を着飾る必要性を最小限にしか感じていなかったためである。
待ち合わせ場所のゆりかもめの改札口では、東京の女子中学生、と言うべき格好の女子3人組が立っていた。
「おはよう。その服、可愛いね」
前の席の女子のうちの1人が褒めた。夕子はホッとすると同時に、それが自分の手柄ではないことを思い出し、赤面した。集団は歩き始めた。遊興施設に向かうまでの間、少女たちは他愛もない会話に花を咲かせていた。教員の話や、他クラスの人間関係の話など…。
「紫雲ちゃん、絶叫乗れる?」
施設に着くと、もう一方の女子が言った。夕子は首を縦に振ろうとしたが、視界の隅の鈴子がの顔が青ざめ、硬直していることに気がついた。夕子は嘘をついた。
「ありがとう…私あんまり、絶叫好きじゃないんだよねえ」
鈴子が言った。2人は、前の席の女子たちが室内ジェットコースターに乗っている間に、ちょっとしたイートインスペースでアイスを食べていた。アイスは、大きな塊になっているものではなく、小さいつぶつぶが大量にカップに入っており、その一つ一つがアイスの塊、という不思議なものだった。夕子はストロベリーチーズケーキ味を、鈴子はチョコミント味を食べていた。夕子はスプーンでアイスのつぶつぶを掬い、口の中に入れると、その不思議な食感と、少し冷たくて舌が凍傷になる感じにびっくりした。
「私、夕子ちゃんが来てくれてよかった」
夕子は、鈴子の言葉にも驚いた。
「ここだけの話ね、あんまり上手くいってないんだ…あの子たちと。」
鈴子はチョコミント味のため息をついた。夕子もそれは薄々気づいていたことだった。だが、それを面と向かって相談されるとは思ってもいなかった。
「合唱部でも、あんまりね…」
鈴子がそうなってしまう理由は、夕子にはよく分からなかった。
「だから、夕子ちゃんがいてよかった。絶対、
合唱部に来てね。オーディションの代わりに、試験があると思うけど、何とかするから!」
夕子が返事をする前に、前の席の女子たちが帰ってきた。
「もったいないよ、乗らないなんて」
夕子たちは曖昧に返事をし、笑っていた。前の席の女子たちは、夕子たちの食べているアイスを買いに行った。
夕子は、ちらりと鈴子を見た。
鈴子も、夕子を見た。
ヒヤリとする感触が夕子の頬に触れた。
ね、おねがい
鈴子の唇が、そう動いた。
第十六話
もっとも嫌いな太陽の角度の中で、
体中が冷や汗に包まれる。
夕子は、視線の中に立って居た。
それは彼女の欲していた憧憬や羨望の眼差しではない。
恥さらしに向ける、哀れみ、怒り、そして、拒絶の眼差しであった。
夕子は合唱部にもダンス部にも入部届を提出していたことが公になったのは、文化祭が終わり、彼女が合唱部の編入試験に合格したのちのことであった。鈴子の助けもあってか、彼女の元々の美しい空気を纏う声のためか、夕子は難なく入部を許されることとなった。鈴子は泣いて喜んだ。ダンス部においても、夕子が入部届を出したことが分かると、聖子は喜び、飛びついてきた。夕子にも分かっていた。兼部、ましてや片方は校内の強豪校とライバルのいる運動部との両立など許されない、ということが。しかし、決断する前の夕子は強気であった。自分になら、他の人にできないこともできるかもしれない、一瞬でもそう思ってしまった、傲慢さが彼女の首を絞めつけた。
「え、紫雲さんって、合唱部じゃないの?」
一年生の女子のこんな会話が、ことの発端であった。人数もすくなくクラスも四組しかない女子校では、情報が伝わるのなどあっという間のことであった。夕子がダンス部と合唱部を兼部しているということは瞬く間に広まり、それは一年生だけでなく、上級生の間にも知れ渡った。こうして紫雲夕子の名は、乙女の赤い吐息に乗って、悪しき方へと飛んで行ったのである。これは当然、夕子の望んでいたことではなかった。そして、想定できた筈なのに、彼女がしっかりと見ていなかった未来なのである。
夕子には、後ろ盾がなかった。そのため、彼女の身を守ってくれる存在はいなかったのである。鈴子ですら、体裁を気にして、夕子から遠ざかった。彼女も当然、夕子がダンス部とも兼部していることなど知らなかったのである。聖子は表向きは話しかけてなど来たが、よそよそしい態度を取った。合唱部に行っても、ダンス部に行っても、夕子の居場所はなく、彼女はただおずおずと、所在なさげに練習に混ざるしかなかったのである。顧問も、まるで彼女をいない存在かのように扱った。夕子は壁の花であった。それはそれは美しい壁の花であった。
当然、学園で形骸化しているシスター制が機能することもなかった。映子は努めて夕子と関わらない様にしたし、露世に関しては、姿を見出すこともままならなかった。
しかし、夕子は決してあきらめなかった。
家に帰り、夕子は事の顛末を母親に話した。母親はその意思の強そうな眉をひそめて、手を額に添えてため息をついた。自然な動作だったが、品のあるものだった。夕子はそういう動作をすることが、まだできなかった。幼少期のバレエの経験からか、形だけまねることはできていた。
「どうしてもっと早く相談しなかったの」
夕子はたじろいだ。そんな選択肢は彼女になかった。本当なら、親から自立して、全てを自らで解決しようとしていたのである。夕子は俯いた。
「いい、今からいう様にするの」
母は夕子にいった。強い目だった。夕子は顔を上げた。
第十七話
乙女を迎え入れる瀟洒な校門も、今や大砲を構えた城壁のようにしか夕子の目には映らなかった。しかし夕子も怯んでばかりいられず、キッと前を見据えて歩き出した。時刻は6時30分、彼女は誰よりも早く学校に着いていた。夕子は誰もいない校舎に向かった。体操着に着替えると、彼女は校庭の片隅でストレッチを始めた。そして、無我夢中に窓を鏡にして踊り始めたのである。次第に生徒の数は増え、窓から美しい黒髪が舞うのをチラと見るようになった。しかしその視線は、腫れ物に触るようなものであった。
放課後になっても、夕子は誰よりも早く体育館に行き、鏡の前で踊り続けた。そして次の日は、朝も昼休みも放課後も音楽準備室で彼女は歌った。この様子を少女たちは訝しげに眺めた。夕子は一切の感情を捨てて練習に励んでいた。
彼女の母の方針通りだった。
そんな日が何日も続いた。夕子は感情の全てを自分の技の習得に賭けた。
ある日、部活が終わり、ダンス部の生徒が帰った後にも夕子が体育館の隅で練習しているのを見て、日本舞踊部の生徒たちが来た。
「紫雲さんだよね」
見ると、2年生の生徒3人らしかった。白粉を塗っている訳でもないのに、白い首筋が印象的であった。
「紫雲さん、上手いよね、うちの方が向いてるんじゃない?ダンス部より緩いから、合唱部と両立できるよ。」
夕子はドギマギして口ごもった。
「突然だとビックリするよね、考えといて。今度見学にも来なよ。」
そう言って、彼女たちは去っていった。
また別の日、彼女が練習をしていると、新体操部の生徒たちもやってきた。
夕子は当然、両方の部活の見学に行った。
その日から、ダンス部の生徒たちの夕子への態度がガラリと変わった。
「やっぱり、ダンスの方が向いてるよ」
「1回入部届け出したんだし」
「合唱部との両立もサポートするから」
「せっかく上手くなってるのに勿体ないよ」
2,3年生のこの態度に、1年生も追随した。
「すごいね、舞踊部にも新体操部にも声掛けられるなんて。」
聖子が何事もなかったかのように話しかけてきた。
次の問題は合唱部だった。合唱部は、顧問の絶対王政であり、彼女が夕子の兼部を心よく思っていないことが一番の癌だった。歌が上手いことよりも、輪を乱さないことの方が求められていた。夕子はいい方にも、悪い方にも目立たないよう心がけた。そうすることが最善策であった。
ダンス部の生徒の態度が軟化した事で、前の席の女子2人は教室でよく話しかけてくるようになった。それに伴って、鈴子も少しずつ態度を和らげていった。しかし彼女としては、部活の体裁上夕子と仲良くしすぎることは悪手であり、クラスと部活の板挟みのようなことになってしまった。
しかし、ダンス部の関係が一段落したおかげで、夕子の気は幾分かよくなった。夕子は練習を続けた。
そんな週の日曜日、疲れた夕子を見兼ね、夕子の母は言った。
「前住んでたところ、いってみようか。」
第十八話
車は日本の中心から少し西側の地域に入った。夕子が幼少期から過ごした街であった。夕子はぼんやりと流れる景色を見ながら、ここがすでに自分のモノではないことを感慨深く実感した。
母は夕子が「計画」のために毎日疲労していることを知った。しかし彼女はそこで6年間の時を過ごすのである。そのため、その場所に対する娘の嫌悪感や、苦手意識が生まれる前に息抜きをさせる必要性を感じたのである。
どんよりとした11月の午後の重たい雲があまったるく空にかかっていた。夕子は母の考えるほど虚弱な神経を持ってはいなかった。
「前の学校も見に行ってみましょ」
母はそんなことも知らず、車を走らせた。
夕子の元居た学校も、以前の居住地からは遠いところにあった。そのため、車で一時間くらい走ると、ようやく近辺に着く、という塩梅であった。
夕子の脳裏には、懐かしく甘い思い出がよみがえっていた。
「電車、一緒だったよね」
夕子は、入学式前のオリエンテーション後に、行きの電車で同じ車両に乗っていた男子生徒に話しかけられた。二人はクラスは違ったが、ホールに一学年全員で集められた時に座る座席が隣であった。彼は安佐井 知(あさい とも)と言う名前だった。私立中学であり、誰一人知り合い同士がいない中で、少しでも顔見知りがいるということは彼らにとって安心できることであった。夕子も初めて学校で話しかけられ、彼の勇気に感謝をした。
二人はオリエンテーションの後、自己紹介をしながら一緒に帰り、それからも電車で鉢合わせたら話したり、廊下で姿を見かけたら手を振ったりする関係となった。
知は男子生徒に珍しく、制服の上に青いベストを着ている生徒だった。他の男子生徒はそのままワイシャツを着るか、セーターを着るかしていた。そのため、彼の姿は見つけやすかった。夕子は、何となくそれに合わせて、いつも青いベストを着ていた。
彼自身もそうであるように、彼の周りの交友関係も地味であった。常におとなしそうな男子生徒か、女子生徒と喋っている様子が見受けられた。夕子はふとその時の彼の顔を見ると、呼吸が出来なくなったものであった。知は決して器量が良いわけではなかったが、人好きする性質で、誰も彼を嫌うものがいなかった。そんな彼が、自分に手を振ってくれる、それだけで夕子は世界に認められた気がして、嬉しかったのである。
しかし、そんな淡い思いも転校と共に消えていった。ただ、優しい音楽、子守唄のように、彼女の心の奥に沈んでいた。
それが今、煩いくらいの耳鳴りとなって、夕子の頭を反響している。
ほのかな期待と共に着てきた、新しい学校の、淑女の象徴が、なぜだか惨めな様相を呈している。
彼女の黒く深い、濡れた瞳に映るのは、見覚えのある青ベストと、見覚えのあるポニーテール、そして、繋がれた掌であった。