そよかぜ便り

些細な日常をお届けします!

斜光

山々は晴天の下に白く連なり、でかい壁のようである。その壁は、陽の光を反射し神々しくそびえ立つ。銃声とともにひとすじの青い煙が上がる。樹海の針葉樹は粉砂糖の雪を被り春を待つ。麓から澄んだ空気に汽笛が響く。一本の汽車が橋を渡る。山麓の前を通り過ぎ、ただ一つの目的地をめざし、煙を吐き出しながら去る。その煙は先刻神の使いを殺めたものとは異なる、灰色の煙だった。汽車は雪国を駈ける。神を宿す壁に見守られながら。そして、人の作った長い長い闇に消えた。数時間して再び光の元へ出た時、そこに広がるのはただ、無口な都市だった。

 

少女が雪の中を駆ける。赤い毛糸の帽子と、マフラー、手袋、それに、頬をして、いちばん赤い寒椿を抱えている。食卓に飾るため、朝露の落ちないうちに、叔母の家で剪定はさみで切りとったものだ。市街地に近づくにつれ、少女の足元の雪は、段々と硬く黒くなっていく。そのとき、少女の茶色い長靴は、足元を捉えることが出来なかった。キラキラと光の粒が舞い、花は空へ踊りあがった。少女の赤い頬は青ざめた。紳士の外套は、赤く染った。膝をついた少女に、彼は手を差し伸べる。赤い手が、黒いグローブに触れる。少女は顔を上げ、その顔を覗き見た。そして、その瞳に映る赤い自分の姿を見た。紳士は外套のポケットから一斤染めのハンカチーフを取り出し、寒椿を雪に落とした。寒椿は、白い雪の中で、紅く燃えていた。彼は未だ、自分が5人の女の奇妙な条約の中に置かれることを知る由もなかった。

 

朝食会場には紫のクレマチスが飾られていた。陽野恒介は、バターロールを口に運びながら、その花を眺めていた。どこから摘んできたものなのか。ホテルの西洋風の庭にはバラが多かったように思える。宿泊客の多くは家族連れで、朝から賑やかな様相を見せている。子供は笑い、泣き、部屋を駆け回った。恒介は、今朝会った少女のことを思い出した。赤い少女だった。外套はまだ少し、花の露で濡れていた。恒介の連れは、恒介が散歩から帰ってきてもなお部屋で眠っているようだった。1人の客は、恒介のみであった。彼は銀のスプーンでスクランブル・エッグを掬った。スクランブル・エッグは皿に零れ落ち、スプーンに顔が映った。それはお世辞にも美しい、整っているとは言えないものであった。肌には出来物が多く、輪郭は骨ばっており、眉毛は整えられておらず、目は黒く窪み、鼻は存在感を主張し、下唇はだらしなく垂れ下がっている、言わば醜い顔立ちだった。髪だけが黒々とかがやいていた。しかし、彼の瞳はスプーンの表面に奪われ、濡れて、恍惚としていた。彼は己の外面を愛しているのではない。そこに滲み出た自身の存在、すなわち精神性に恋しているのだった。彼は我に返り、珈琲を一口飲んだ。その味は、驚くことに寮の朝食に出るものと同じ味であった。同じ豆を使っているのか。寮の珈琲の味がいいのか。恒介は、寮母の松山明子のことを思い出した。

「やっぱり、何も言わずに出てきてしまったのを怒ってるんじゃないかしら...」

心配性で口うるさい若い寮母が空の部屋と書き置きを見て腹を立てている様子が想像出来る。明子は普段から19時まで何の連絡も寄越さないと、大騒ぎして警察に電話すらかけてしまうのであった。寮生は自分を含め10名だが、恒介は特に気に入られていた。彼は珈琲をソーサーに置くと、ナプキンで口を拭った。その理由は思い当たらないでもない。2年前、入寮した初日の事件のせいである。

 

隣県から来た恒介は、たくさんの荷物を抱えて門を叩いた。出てきたのは、松山明子であった。

「陽野くん?」

恒介は初め、彼女のことをお手伝いさんか寮生というのも、あまりにも若かったためである。引き戸を中腰になって開けており、長く黒い髪が左肩にかかっている。肩からは赤いエプロンが下がっていて、その下は黒いニットワンピースを来ていた。

「はい。お世話になります。」

恒介は荷物を置いてお辞儀をした。すると、明子は不自然なほど素早く荷物を持ち上げて、どこかへ持って行ってしまった。恒介が明子の残した香りを思い出しながら立っていると、戻ってきて中に入ることを促した。

「私が寮母の松山明子です。よろしく。」

居間に入ると、明子は恭しく頭を下げた。長い髪がさらりと垂れ下がった。恒介は明子が寮母である事に驚いた。すると、明子は微笑んで、そう言うと思った。と言った。明子は会社勤めをしていて、事務的な手続きと土地の所有だけを世襲していた。給仕は住み込みの使用人が行っていた。明子は恒介に椅子を進め、基本的なことを聞いた。高校、故郷、クラブ活動や趣味の話だった。だが恒介には、これらの会話が壁打ちか千本ノックのように感じられた。聞かれたことに答え、そこには感動や空間がなく、儀式のような会話だった。実際、松山明子にとってそれらは、その先にすべき何かのための通過儀礼なのであった。

事務的な話を済ませ、恒介は部屋に案内された。同室には同じ大学の2年生がいた。彼は不在で、恒介は萎縮することなく荷解きを終わらせることが出来た。夕食まで時間があったので外を彷徨くことにした。寮の周辺には商店街があった。恒介は店に並んだオレンジやらリンゴやらを見ていた。すると、突然誰かの手が肩に触れた。

「きみ、大学一年生だろう。今日入寮してきたと言ったところかな。」

驚いて振り向くと、真っ黒い外套を着た、背丈の高く、顔の青白い青年が立っていた。

「僕は同室の豊川だよ。よろしく。」

面食らいながらも恒介は挨拶を返した。

「こんな所で話すのはなんだから、ちょっと近くの喫茶店に行かないか。」

豊川は返事も聞かず、恒介の肩を抱いたまま、カンパーニュという喫茶店に入っていった。恒介は驚いたが、同室の学生だというので安心した。

席に着くやいなや、豊川はビラを取り出した。

「この寮に入ったからには、これに入らなくちゃあいけない。」

ビラには、光教秘神の会、と書いてあった。恒介は背筋と表情が凍りついていくのを自分に感じた。本能が、自分を助けて上げねばならないと叫んでいた。しかし、寮に入ったからには入らなければならない。彼は、この寮を勧めた母や、先程やたらと親切にし、逃げ場を与えぬよう荷物を持ち去った寮母に猜疑心を抱いた。玄関のビラを見られたら逃げ出されると思って急いで上がらせたに違いない。恒介は苦笑いすることしかできなかった。

「ちょっと読んでてよ。同じ寮生をつれてくるから。あ、珈琲二つ。」

そう言って豊川は出ていった。恒介はたまらなく怖くなった。もう逃げられない。今までの平穏な日常から程遠い場所に来てしまった様に感じた。情けないことに彼の目からは己への同情の涙が溢れていた。その涙は彼の内面からの外面への働きかけであり、彼自身を繋ぐものであった。恒介はこういうとき、いつも自分と繋がっていた。涙を流すことで、彼は自分に縋ることができるのだ。彼が自分に恋をしているのは、内面と外面がしっかりとくっ付いているからだった。恋をしている自分はその融合体であるが、自身が自身と繋がっている感覚は何にも変え難い恍惚であり、唯一自分が存在していることを示すものであった。ウェイターは遠慮がちに珈琲を置いた。彼はマグに映る自分の顔を見た。醜い顔だった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった、赤ら顔。でも、彼はそこに精神と肉体の繋がりを見いだした。精神は受肉し、肉体に魂が注ぎ込まれる。人間の誕生が、その一生の中で何度行われるものか。恒介は、自分が泣いているのか笑っているのか分からなくなった。

その時、目の前の椅子に誰かが座った。

「引っかかっちゃったのね。」

ふと顔を上げると松山明子が微笑みながらチラシをつまみ上げていた。

「ほんと、いっつも新入生を狙って悪質なことをするのね。」

恒介が黙っていると、明子は一斤染めのハンケチーフを渡した。恒介は、自分の頬に涙が伝っていたことを忘れていた。明子は、ハンケチーフを恒介の頬に押し当てた。恒介は驚いて身動きが取れなかった。

「大丈夫。私といればあんなことにはならないわ。」

松山明子の微笑した顔には、若いながらも加齢を感じさせる皺が出来た。しかし、それは老いを想起させ自然と人を不快にさせるものではなかった。右目の下のホクロが曲がって伸びていた。母の顔よりも柔和で、豊川の顔よりも邪悪な顔だった。

ウェイターが運んできた珈琲を2人で飲んでいると、先の学生が仲間を連れて入ってきた。明子の座っていた位置が死角になっており、店に入った時は見えなかったのか、恒介の向かいに座る姿を目にした途端、学生達はそそくさと逃げ支度を始めた。

「豊川さん」

明子がいる安心感からか、恒介は思わず呼び止めた。豊川は怖い顔をした。明子は目を丸くしていた。

「へえ、貴方豊川さんと仰るの。うちの寮生とおんなじ名前を使ってらっしゃるのね。」

そうして真紅のリップの付いたカップをナプキンで拭き取った。

「えっ?」

恒介は驚いて「豊川」の顔を見た。「豊川」はバツの悪そうな顔をしていた。

「同室って...」

と恒介が呟いた途端、松山明子の高笑いが店内に響いた。斜め前の席に座っていた老婆たちが振り返った。

「豊川さんの名前を使っていらしたのですね。じゃあそのお話を本人にも聞かせてあげたいわ。一緒に活動してらして?」

明子は楽しそうに体を揺すった。子供のようだった。「豊川」とその仲間はモジモジしていた。

「金輪際こんなことしないで頂戴ね。」

打って変わった低い声色で明子が言うと、学生達は大慌てで退散していった。その様子を目で追って、彼女は恒介の方を見て、微笑んだ。

「よかったや。同室が別の人で」

恒介もホッとして微笑んだ。

「あまり友達や頼れる人がいやしないから、寮母さんがいなかったらどんな目に遭わされていたことか。」

本当のことだった。恒介には友達が少なく、本当に心を開ける相手が出来たことがなかった。その必要がなかったからだ。彼はいつでも鏡・運動・客観・食事・水面・エッセイ・沈黙・夢・官能・白紙を通して彼自身と対話していた。

「それなら私に頼るといいわ。私は他の曜日は寮の仕事と、会社勤めがありますからね。火曜日の夜九時に居間にいらしてね。不安なことを話してくれれば私が聞くわ。貴方が気が済むまででいいわ。」

松山明子の語気は否定を許さない強いものだった。助けを必要としていない恒介の修辞に明子は気が付かなかった。というより、気が付いていたとしても気に留めなかったであろう。それが彼女の「保護者」としての性分なのであった。恒介はこれを承諾した。

寮母は、夕飯の支度があるからと席を立った。給仕をする訳ではなく、監督をするためだ。

「あ、これだけは約束して頂戴。決して嘘はつかないと____」

 

それ以来、毎週火曜日になると恒介は居間に行って明子と話すようになった。夜通し話し続けることもあれば、本当に少しの報告で終わることもあった。彼女はとても多忙のはずなのに、火曜のその時間は必ず空けてあった。恒介はスクランブル・エッグを食べながら、そんなことを思い出していた。生憎今日は火曜日で、帰れそうになかった。恒介とて、突発的に旅行に来るつもりはなかったのだ。

「姉が行かれなくなったのだけど、一緒に来ない?」

花野井美樹から電話がかかってきたのは昨日の朝であった。大学の春季休業中であり、断る理由もなかったため恒介は承諾した。美樹は恒介と恋仲であったが、同じ授業のある水曜日のほかに会うのはこれが初めてとなった。

 

美樹と恒介は大学で同じ学級に属していた。知り合ったのは入学時の学級懇親会であった。美樹は華やかな顔立ちと家柄をしていたため、入学早々話題に挙がっていた。恒介も同級生の噂を聞き、その存在を知っていた。懇親会には、担任の教授を含め、クラスの全30名が出席していた。名字順の席順であったため、恒介の席は美樹の隣であった。席に着いた途端、恒介は周囲からの嫉妬の視線の矢を感じた。美樹は樺茶色のウエープががった髪をひとつにまとめていた。顔の周りには宝石類の類が控えめながらも強い主張で輝いていた。美樹が飲み物を持ち上げると、腕に着いたトパーズのバングルがカシャンと音を立てた。付属物の派手さに負けず劣らず、彼女の顔立ちも煌びやかなものであった。まつ毛の長い大きな目に、ふっくらとした丹色の口元は、どこにいても彼女の顔を認識させるものだった。彼女の存在により、学級懇親会はあたかも西欧風の食事会のような雰囲気になった。恒介は彼女のはでやかさに目を取られており、その挨拶を聴き逃していた。

「へえ、こんなに華美にして大学に来る人間もあるもんなのだなぁ。同級の者たちは皆あこがれの視線を送っているけれど、僕にはよくわからないな。虚飾なぞいくらでも出来るものだ。」

恒介は彼女を前にしても未だ自らの美を疑いもせず、尚更その価値を相対的に引き上げた。美樹は自分の挨拶を無視されたことに気づき、恒介の前で手をヒラヒラとさせた。バングルがカシャカシャと鳴った。

「こんにちは!」

美樹が言うと恒介はハッとしてその目を見た。

「ああ、どうも、陽野です。よろしく。」

美樹は恒介の瞳がスーパーの野菜を見るようなものであることに気がついた。彼女の人生において、そのような人間、それも異性はほとんどが居なかった。大抵が好意が嫌悪、どちらかを示してきたのだった。そのことは、彼女の自信を養わせていたし、また、彼女の人生を退屈なものにしていた。美樹は恒介を見た。醜い顔であった。この人よ、と彼女は思った。この人こそ、私の願いを叶えてくれる、醜い人だわ、と。

その日から美樹の恒介への接近は凄まじいものであった。周囲には、なぜ彼女のような者が恒介なぞに執拗に迫っているのかがわからなかった。それは恒介にとっても同様であったし、その理由は美樹にしか知りえないものであった。美樹は醜い者に愛されたかったし、醜い者を愛したかったのである。しかし、その醜い者は心まで醜くてはいけないのであった。その点において、ファーストコンタクトで彼女に微塵も興味を示さない恒介はその条件を満たす者であった。

恒介は、彼女の猛烈なアプローチを受け、戸惑った。というのも彼には、彼女を好きになる可能性はなく、かといってすげなく彼女を拒絶することも出来なかったのである。